邪馬台国は何処に?
日本にも古代文明が有った、その一つが邪馬台国である。しかし、これには邪馬台国論争が付き物である。
その論争の内容とはこうだ、中国の史書「魏志」の「倭人伝」に残されていた。女王・卑弥呼が君臨する邪馬台国は何処に有ったのか?
候補地は沢山有る、だが、大きく分ければ畿内説(畿内とは:山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)をいう。) と九州説に二分される。この二つの仮説は、江戸時代に新井白石が畿内説、本居宣長が九州説を唱えた。それからなんと、300年にもわたる大論争なのだ。
そもそも、「魏志」の「倭人伝」における記述が不正確なのだ。「倭人伝」は邪馬台国までの道順を、方位・日数を詳しく記している。
しかし、その通りに進むと九州の南の海上に出てしまう。きっと方位か日数が間違っているのか?そこで「南」を「東」に読み替え、日数はそのままでも畿内に至る。これが畿内説である。
逆に方位はそのままで、日数の「陸行一か月」を10日に読み替えると、きれいに九州に収まる。また、九州説でも、伊都国(いとこく「福岡県糸島市・福岡市西区」付近と考える研究者が多い。)を中心に放射状に読む説、これは日数を読み替えなくとも良い。
しかし、史料を都合に合う様に、読み替えている感じである。そこで学者たちは、遺跡からの出土品で邪馬台国の確定を試みる。
三角縁神獣鏡レプリカ
そこで、初3(239)年に卑弥呼が魏からもらった、100枚の銅鏡(三角縁神獣鏡)で考える事にした。「景初三年」その翌年の「正始元年」の銘が入ったものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に発掘される。
九州からの出土は少ない、これはつまり鏡を多く所有していた国、邪馬台国が近畿地方に有った証拠だと言われる。
しかし、問題があった。卑弥呼が魏の皇帝からもらった鏡は100枚、日本国内で400枚が発見されている。
しかも、中国では一枚も発見されていない。その為、これらの鏡は後世に、日本で作られた贋作(コピー)と指摘される事も。
邪馬台国をめぐる論争は、まだまだ決着がつきそうも有りません。