謎に満ちた少年、カスパー・ハウザーとは?
1828年5月26日 ドイツ ニュルンベルクのウンシュリット広場に10代の少年が迷い込み、少年は震えながら、靴屋に1通の手紙を差し出した。
この手紙は少年の母親が書いたものだった。少年の名はカスパー、父親は軍人だと書かれていた。ポケットには育ての親からの手紙があり、少年を軍隊に入れるように記されていた。しかし、これは2通とも同一人物が捏造した手紙だと判明した。
発見時、少年は「カスパー・ハウザー」という名前しかかけず、数単語を発するのみであった。しかし、わずか数ヶ月でドイツ語を習得し、これまでの生活を説明できるまでになった。
彼の話によると、彼は暗く小さな穴蔵で暮らし、おもちゃの馬を与えられて育った。目を覚ますと常に床の上にパンと水が置かれていた。
しかし、その水は苦いときもあり、それを飲むと深く眠ってしまう。起きると必ず体が綺麗に洗われていて、爪も切りそろえられていた。孤独な生活だが、他の事はまったく知らない為、不幸とも思わなかったという。
このニュースは、瞬く間にドイツ中に知れ渡った。だが、彼の正体を突き止める事は出来なかった。何故なら、翌年の1829年 ハウザーは殺害未遂に遭い、その後何人かの保護者のもとを転々として、バイエルン州アンスバッハに移り、1833年 脇腹を刺され死んでしまった。
息のあったハウザーの証言によると、ほおにひげを生やした黒マントの男に名前を尋ねられ、絹の財布を渡された。その直後に脇腹を刺されたという。
財布には「M.L.O」の署名と、「ハウザーには、自分を襲った人間の正体がわかるはずだ。バイエルンの州境のある場所から来た人間だ」と書かれていた。
ドイツ中に知れ渡ったカスパーだったにも関わらず、カスパー殺害事件はほとんど調査される事がなかった。
カスパー・ハウザーの一生は出生も謎であり、死までも謎となってしまったのである。