【謎】メアリー・セレスト号事件
バミューダ・トライアングル
バミューダ・トライアングル そこでは、いったい何が起きているのだろうか?
1872年11月7日 メアリー・セレスト号は、発見されました。
現場は、バミューダ・トライアングル‼
世界中の海で、最もミステリアスな海域。それはやはり、バミューダトライアングル海域です。フロリダ半島・バミューダ諸島・プエルトリコを結ぶ三角海域では、これまでに数百隻の船舶と、何千人もの人間が消滅したと言われます。
その中の一隻、メアリー・セレスト号事件の詳細です。
1872年11月7日 メアリー・セレスト号は、ニューヨークのメッシナ・アッカーマン&コインから出荷された工業用アルコールを積み、ニューヨーク港からイタリアのジェノヴァ港に向けて出航した。
ベンジャミン・ブリッグス船長
ベンジャミン・ブリッグス船長と妻のサラ、2歳になる娘ソフィア・マチルダ他、乗組員の7名だった。
その10日後、イギリス船ディ・グラシア号(デービッド・ムアハウス船長)が、ジブラルタルに向けてニューヨーク港を出航。
同年12月5日の午後、ディ・グラシア号は北大西洋アゾレス諸島とポルトガル海岸の中間で、メアリー・セレスト号を発見した。
明らかに漂流しているようだったが、遭難信号を発信してはいなかった。
一等航海士オリヴァー・デヴォーらがメアリーセレスト号に乗り移った。船に人の気配は無く、デッキはびしょ濡れ、船倉は若干の浸水、ポンプが作動したので排水をした。
食堂のテーブルには、船員たちの食べかけのスープや、食べ物がそのまま残されていた。
乗組員の寝室は、大急ぎで離船した様子の乱雑さだった。船倉のアルコールは数樽が開けられており、1個は空になっていたが、食料と水は残されていた。またハッチが外れ、甲板の上に有った。
救命ボートが失われており、乗員は船を棄てたようだが、理由は今もって分っていない。
だが船には損傷もなく、3つの手すりに血痕があり、その一つは奇妙なひっかき傷が有った。
その後、メアリー・セレスト号を帆走させ、12月13日に両船はジブラルタルに入港。イギリス当局により船が捜索されたが、船長の航海日誌以外手がかりも見つからなかった。その日誌も、11月24日 アゾレス諸島の西方100マイルの海上の記述が最後である。
航行が出来る状態にも関わらず、船を放棄した理由。それこそが、この事件の最大の謎である。